小さき挑戦者達
(二階席からの観戦記:岸 三郎 2007.03.10)

小学生たちの空手に於ける稽古や試合中の姿勢を見ると、その取り組み方の様々な態度に、幼い人間の成長過程に必須な頼もしさや危うさを見る事が多々あります。

先人より生きる術を習う習性は、生きた教育の基本遺伝子がどのような形で受け継がれようとも、人間としてはそれらを習得しなければ生きていけない本能を垣間見ます。おそらくその執着力の強弱と、習得する内容の選別が自分の遺伝子に合った時に、本人が嫌がったり避けたりしても遺伝子本能が継続を促すのではなかろうかと一人合点しています。

佐伯先生や師範代の各先生を師として府中支部清水道場に集まっている「小さき挑戦者たち」を見ていますと、途中から姿を見せない子、継続している子、遊びに来ている子と様々な形態があります。

これは空手に関しましての小さな感想ですが、物事を習うには、まず師に恵まれる事、そして習う側の者がそれに適していること、その上に習う意欲が備われば言う事はありませんが、これらのどれかは大切な要素ではなかろうかと思います。
特に師に恵まれる事は、心身ともに育ち盛りの小さき挑戦者たちには何物にも代え難い恩恵でしょう。

それには教える側の資質も問われる時間でもあります。過って自分が修得した方法、自己が新たに会得し取り入れたい理念、そして日本空手協会総本部よりの指導方針と種々の要素が重なり合った2時間(稽古)でもあります。

効果ある教育方法に未だ決定的な解決を見ないのは、教える側と教わる側お互いの才能の違い(年齢の差や環境及び規模等々)や、行った結果の発現が遅い事、そして教育に要している時期による差等々の要素が継続的な教育方針を難しくしている事もあると思います。

しかし、当道場のようにしっかりした理念で継続的に行う指導者が居れば、自ずと求める方々は寄ってくるのではと思います。親も子も教育者には飢えているのです。特に親は子を溺愛しながらも自分には出来ないもどかしさを覚えながら、その道に通じる方々に鍛えていただきたいと、勝手でありますが密かに思っているのも事実です。親を超えてもらえたいと思う親がいる限りは、人類は成長するでしょう(チョット大きな話となりましたが)。

道場にて時には叱咤にも似た厳しい稽古鍛錬を家族はじっと耐え見ている姿に、祈りにも似たような空気を感じます。それが単なる空手と言う習い事の一つであっても、飢えたる挑戦者たちに(年齢を問わず)習得すると言う教育の原点を原石に与えています。習う事の大切さ、そして身に付ける事の達成感は、小さな挑戦者達には親と言う庇護の元に得られる僅かな時間の貴重な実績として心身ともに記憶されるでしょう。

もし、これが学校(小中学校等)と言う場でしたらどうなるでしょうか。おそらく多くの親達は当道場と同じ様な光景を目の当たりにしたならば、教師や学校への非難は想像に難くないと思います。これは親達の勝手な(エゴ的な)理由からくる、義務的に受ける教育と、自ら望んで受ける教育(ある種の)の違いでしょうか。

無意識に眠る自己潜在能力が自ら起きる事を欲した場合に、生物はどのような状態で表現されるのでしょうか。発育と成長の精神的・肉体的発芽時期(言葉は適当かどうか自信が無い)のバランスに、本人の待っていたような好奇心とが連結し、時期的継続が足された場合に行なわれた行為は、偉大な結果を生むのではと推測しています。

しかし親が思うほど子供達は自分の行動に責任を持ちません。過度な期待と押し付けはマイナスに働きかねませんので、その子の親にしか出来ない愛情と、又大人としてゆとりある構えで接することも必要かと思います。その子はもしかして優秀でも、あるいはたとえ不憫でも一生付き合う大切な宝ですから。

佐伯先生が例に出された言葉で:

大リーグで活躍中の松井秀喜選手曰く:
「自分に才能があるとすれば、それは努力をすると言う才能」
この言葉は継続することの大切さを一番わかりやすく表現していると思います。そんな偉大な言葉に小生が書いた小さな感想が加われば、などと思い寄稿しました。
(孫の千裕が空手を始めた折の小さな感想文)
                                  以上

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