稽古への一片考・・・・ 
(夏合宿観戦記:岸 三郎 2007.08.07 )

稽古とは《古(いにしえ)を稽(かんが)えるの意》と出ていました。佐伯先生が毎回のように言われ書かれている武道や匠と言われるものは、古代より練りに練られて継承し、受け継がれ現代にいたる云々とはこの事でしょうか。常に見えない相手を眼前に描いて空手の挙動を行う、と言う稽古は難しい世界です。舞台にて「一人芝居」を行った友人に聞くと、自分の世界に浸って想像する以外に手は無いとの話を聞いたことが有ります。見えない相手を見るには、その域に達した方々の次元でないと分からないとの事です。そこまでは行かなくても「自分の世界に浸る」、自然と手足が動く程度の訓練なら出来そうな気がしないでもないかな、と思ったりもしています。

自分の世界に浸り → 相手(敵)を想像し →  集中力(ゾーン)を高めて → 無我夢中になれば → 無心になれる、か?  

時折形の途中の一挙動が分からない時に先生に聞きますと、「エート」と言って最初から始めてその挙動にきた時に、「あっ、ここね」と言われて教えてくれる事が有ります。あれですね、
一連の流れの中での記憶 → 体で覚える → 稽古量

しかし、1つ1つの形を見ていると、その型中の形の多さに、よくぞここまで考えたものだと、その発想量に驚きます。その上それらを一連の流れとして形シリーズ(勝手に付けてすみません)にまとめられた集大成には頭が下がります。教える人によって教えられる人の生き方は決まる、と言われますが、教育と言われる分野は、人柄だけでは決められない要素が多分に有るなぁ〜と思いながら夏の合宿の稽古を見ていました。
今回参加した会員の鈴木先生の姿勢を見ると、まだ創部間もない中学空手部(鈴木先生が子供達の教育・躾のために創部した)で有りながら、あの一見何処にも居るような中学生4名を大集団の道場の夏合宿(約60名参加)まで連れてきて、教えるでもなく、叱咤するでもなく、それでいて無関心を装いながらも静かに見守るメガネの奥の細い目の優しさ、その態度に何故生徒達が就いて来たかの背景には、彼が教師として得た多くの労苦が生かされている姿を見ました。生徒達は中学空手部だけの稽古では得られない多くの経験をこの合宿で学んだと思います。短い合宿期間でしたが、生徒達は挨拶と礼儀作法について、しつこいぐらいに指導されていたようです。集団生活の中での訓練の大切さを痛感した次第です。
今回の合宿に引率として来られたお母様方(稽古以外の方々)を見ていますと、くまなく全部の参加した子供達を随時見ていました。我が子以外にも気が届く心、これはその方々の育ってきた環境と、その家系にて培われた《古を稽えるの意》良質なDNAがさせる愛情なのでしょうか。本当にありがとうございました。そしてご苦労様でした。感謝申し上げます。
(孫の千裕と一緒に合宿参加した小さな感想文)
                                       
以上

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