書評:『義珍の拳』


今野敏「義珍の拳」
集英社、2005年

義珍(ぎちん)は明治元年(1968年)沖縄県の首里川の武士の家に生まれ、身体虚弱のため唐手術に入門した。義珍の師範の一人である糸州安恒は、「唐手術(トウーディー)は沖縄(ウチナー)の宝」と語った。日本の南の島から発祥した唐手術(現在の空手道)は、江戸時代の終焉、明治時代の到来、そして二つの世界大戦という移り行く時代の余りにも大きな流れの中で培われてきた。そしてその精神は「今」に引き継がれている。本書は、空手道の歴史を「義珍」こと故船越先生(沖縄では「富名腰」の姓)の生涯を通して躍動的に描いた一冊である。

柔道や剣道と同様に、空手道を日本全国に広く普及させたい。大きな夢と希望を胸に上京した義珍は、その生涯を空手道の発展のために捧げた。近代空手道の原点はこの義珍にある。だが、輝かしい功績とは裏腹に、実際には苦労も耐えなかった。世の中は流動的なものなのだ。「沖縄の宝」は、少しずつ知名度を上げていくにつれ徐々に変容していき、義珍の培った唐手術の精神からは少しずつ逸脱していった。実際、現在の我々が使用している「空手道」という呼び方も、明治37年(1904年)沖縄において、当時の文部省の認定により体育の正課として取り入られる際に義珍が改名した呼び方だ。空手道とは、何も援助を受けずに、独力で物事にあたることを意味する「徒手空拳」を語源にしている。

もともと空手道の本質は型にあった。「空手の稽古は型に始まって型に終わる」のが本来の修業の形式だった。たしかに変手としての掛け試し(カキダミシー)はあった。だが実際には一部の者しか行なっておらず、それは当時の教えに背くとさえ言われていた。義珍が初めて空手に出会った時、空手は「唐手」であったし、現在の我々が行う自由組手などは当然なかった。
稽古の方法も現在とは全く違っていた。義珍は実に4年もの歳月をナイファンチ(鉄騎)の型のために費やしたのだ。3年をかけて型の流れを、そして1年をかけて「ムチミ」と「チンクチ」を習得した。想像を絶する修業期間である。ムチミとは鞭のようなしなやかさ、そしてチンクチとは伸屈のことを指す。ムチミは鋭い速さを生み、チンクチは小さな動きでも強い力を生む。それらは決して一朝一夕で身につくわけではない空手道の真髄である。そして現在もその教えは深く根付いている。
空手道は「君子の武道」だった。鍛錬をして、頑強な体を作り上げ、技術を磨き、そして一生使わずに済むのが理想なのだ。だが、生きている空手は「変わる」。これは義珍自身が身を持って痛感した事実である。
 
日本空手協会の設立は、義珍80歳の時の功績である。もともと義珍の道場であった「松涛館」が第二次世界大戦の戦禍を被った後のことだ。流派にこだわることを嫌い、例え変容してでも、空手が国民的武術として大成することを何より望む義珍の思いが込められていた。空手も「空手道」として一本化されるべきであり、そのためには、松涛館流の名のもとの結束では不十分であると考え、日本空手協会という「より中立的な団体」としたのだ。義珍の空手道への一途で深い思いが感じられる。
 
我々は「今」を生きている。必ずしも「沖縄の宝」を元来の姿のまま継承する必要はない。だが、その根底に流れる精神は大いに汲み取るべきだろうし、疎かにしてはならない。本書を読むと、このことを痛感する。義珍こと故船越先生が目指しておられた真の空手道の精神こそ、当時とその様式を若干異にしていたとしても、時代を超えて、頑なに継承されるべきであろう。また、空手道を志す者として、空手の歴史をきちんと理解し継承発展させる責務がある。

文責:向 和歌奈